「わかりにくさ」との出会い - L010
「メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬」という映画をご存知の方はいらっしゃるでしょうか。監督・主演はトミー・リー・ジョーンズ。日本では缶コーヒーのボスのCMで知られている宇宙人ジョーンズさんですね。でも彼は日本でのあのコミカルな受容のされ方とは全く違う側面を映画ではよく見せてくれます。アメリカのテキサス出身で父親が油田で働いているという出自がなせる技なのか、中西部のアメリカの持つ埃っぽさや鷹揚さと頑固さがないまぜになった二面的なパーソナリティ、それから表にそれほど明確には出てこないけど、時々影のようにさす死と暴力の雰囲気など、白でも黒でもない灰色のアメリカを背負っている俳優の一人だと感じています。そしてここにもう一つ付け加えるとすると、出身の大学はなんとハーバードで、しかも文学と演劇の専攻です。荒々しい男たちが闊歩する中西部の映画に出てきても、いつもどういうわけかどこか上品な雰囲気が出てくるのは、その辺りなのかもしれません。
さて、映画ですが、僕は今までなぜこの映画を観てなかったんだろうかと後悔するくらいに深くブッ刺さる最高の映画でした。元々僕はアメリカ中西部、特にメキシコ国境あたりが舞台の映画が大好きなんですが、そういう自分にはまりそうな部分を割り引いても大傑作だと思いました。一方、この映画を誰にでも勧められるかというと全くそうは思いません。日本で上映したところで、大した興行成績も残さない映画で、SNSのトレンドにもならないだろうと思います。今日話したいのはそのことなんです。つまり、コンテンツのわかりにくさ、あるいはわかりやすさ。
以前誰かに、「わかりづらい映画を観てても、映画の要点がわからないからイライラして楽しめない」というようなことを言われたことがあります。だから映画自体嫌いになってしまったのだと。その気持ちはとてもわかるのですが、もったいないなと思いました。ただ、その時は、「うーん、そうだねえ」くらいしか言えなかったんですよね。でも昨日映画を見ている時に、古い記憶を思い出しました。
あれはいつ頃だったでしょうか、小学校4年生くらいだったと思います。当時の僕はキン肉マンが大好きな普通の少年でした。さらに小さい頃といえば、「エルマーとりゅう」や「おしいれのぼうけん」が大好きな、その後小説好きになる要素をチラリと見せてはいるのですが、そこまで文字の表現に強く没頭していたわけではなく、ごくごく普通の少年だったと記憶しています。ある日、友達の家に遊びに行ったとき、普段はその時間にはいない友達のお兄さんがいました。おそらく中間試験か何かで部活もなしで早く帰ってきた日だったのでしょう。小学四年生から見る中学生というのはずいぶん大人びで見えるので、少し緊張したことを覚えています。そのお兄さは、僕らがファミコンで遊んでいる横で、本を読んでいました。なんの本かわからなかったんですが、ずいぶん分厚い本を読んでるんだなという印象を持ちました。
その後、何度か遊びに行ってると、たまにすれ違うお兄さんが、僕らにも声をかけるようになります。ある時、また本を読んでいました。例の分厚い本です。本当にただの興味本位で「それ何読んでんの?」とかなんとか聞いた気がします。お兄さんは少しだけ困惑して、「指輪物語っていう小説や」と教えてくれました。J・R・R トールキンのあれですね。そしてちょうど友人のドラクエ2だか3だかをみんなで集まってあーだこーだ言いながらやってるのをお兄さんはおそらく観ていたのでしょう。「ドラクエとかファイファンの全ての大元が、この小説なんやで」と、意味深なことを呟きました。
そんなこと言われたら俄然興味が湧くじゃないですか。幸い、家からすぐ近くに図書館があったので、お兄さんに言われた「指輪物語」という単語で本を探してみました。すると驚いたことに、あの分厚い本は一冊じゃなかったんです。なんと10巻本でした!(おそらく。もしかしたら当時は9巻の分冊だったかも。今出ている新装版は10巻に分けられています)文字ばかりの本で、しかも一冊一冊がかなり分厚い本が十冊!一体お兄さんは何が楽しくてこんな大変なことをやっているんだろう、そんなに面白いのかな。興味がさらに湧いた僕は、一冊目を手に取り、少しだけ読み始めます。大人用の本なので、難しい漢字がずらりと並んでいますが、少しだけ漢字が得意だった当時の僕はなんとか読めました。そして頑張って頑張って数ページを読んだあと、ほとんど絶望に近い気分で天を仰ぎます。全く面白くないんです。そりゃもう、これ以上僅かでも読み進めたら、その場で気絶してしまうくらいにつまらない。それが「指輪物語」との出会いでした。自分の努力が報われなかったことにイライラが爆発しそうになりました。なんやねん、全くおもろないやんけ。本を棚に戻してぷりぷりしながら家に戻ることになりました。
これは小学生の僕にとっては仕方ないというか、実際に読まれた方はご存知の通り、「指輪物語」の最初の50ページほどは、主人公フロド・バギンズの養父であるビルボのことや、ホビットという種族についての説明、それからよくわからなパーティーの描写に費やされているページです。つまり、物語はほとんど始まりもしないし、なんなら説明書みたいな部分なんですね。小説を読み慣れてない人、あるいは、読み慣れている人であったとしても、あれを楽しむには相当な訓練が必要です。それなしでいきなり読み始めたわけですから、楽しいわけがない。挫折しました。小学4年生の頃です。
ただ、その出会いが僕の人生を変えます。多分変えたと思うんです。指輪物語は最初全く面白くなかったのにも関わらず、一種の「憧れ」のような形で僕の心に小さくも深い棘のように刺さったのでした。そこには多分、静かにあの本を読み進める友達のお兄さんの知性と落ち着きに憧れもあったでしょうし、僕らが死ぬほど大好きだったドラクエのようなRPGの起源を知りたいという欲求もあったのでしょう。子どもを動かすにはそれくらいの些細なきっかけがあれば十分で、僕は結局、その後何度かトライした結果、小学校6年生の夏休みから卒業にかけて、「指輪物語」を全巻読み終えました。物語の全てを楽しめたとは決していえませんし、書かれている内容を理解していたとは到底思えないのですが、小さな動機と決意が駆動した「あの本を全部読んでやる」という目標を達成できたことは、その後の大きな自信になります。そしてそれ以上に大事なことは、「わからないものをそれとして受容する」という感覚でした。
わかりやすいものがダメだというわけではありません。僕は当時、指輪物語を読みながらも、相変わらずキン肉マンは大好きだったし、その後はドラゴンボールもスラムダンクも、同世代に流行る全ての物語とコンテンツを貪欲に貪り続ける青春時代を送ることになります。それが僕の基盤をガッツリと作ってくれました。ただ、わかりやすいものは、あまりにも適切にゴールが見えるように設計されていて、次第に自分の内側で引っ掛かりを作らなくなっていったのです。むしろ「あれ?これなんだ?」という違和感、そしてその違和感やわかりづらさがもたらす、不明瞭な物語の輪郭を、闇の中で形を把握しようとでもするように、手触りを確かめ、形を確かめ、少しずつ把握することの喜びや愉悦に惹かれるようになりました。気づくと、むしろその「不明瞭さ」こそが、むしろキーワードのように全体像を描き出す、巨大な「影」として機能していることに、素早く鼻が効くようになります。おそらくわかりづらいものを見た時のモノの見方を、僕はそうやって自分用に作り上げていったのだろうと思うのです。効率よく楽しさが設計された物語ではなく、見た人がそれぞれ勝手に自分の楽しみを見出さなくては機能しない物語へと、より強く惹かれるようになりました。
数年前、友人が「わかりづらい映画は嫌だ」と言った時、多分伝えたかったことはこういう話でした。長い長い前段がある上に、結局「わかりづらさをそのまま楽しむしかない」という、身も蓋もない結論なので結局この話をしても何も変わらなかったとは思うのですが、昨日映画を観終わった時に、かつて小さな僕に「指輪物語」のことを教えてくれたお兄さんの横顔を思い出したんです。それは映画の中で主人公が、フラッシュバックのように思い出す友の横顔に似て、ノスタルジックな憧れを感じる横顔でした。多分、指輪物語を頑張って読んでなかったら、僕は今、あの横顔をもう思い出せなかったと思うんです。そして多分僕はこの場所にもいなかった。今、さまざまな楽しいものに開かれている自分ではいられなかった気がするんですね。そう思うと、なんという素晴らしい出会いだったのだろうと思うのです。そして写真もまた、同じことだなと思い、今日はこんな話を書き残した次第です。
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