写真家になるということはどういうことなのか
瞬く間に夏が過ぎ去っていき、花火のシーズンも終わりを告げようとしています。この夏は10個の花火にいき、そのうち7つほどは撮影に成功しました。経験上、これはすごく稀なことで、大体毎年の夏の花火撮影は、10個のうち5個は失敗、悪いときは7つくらい失敗という年もありました。今年は運にも天候にも友人たちにも恵まれた結果、成果が多かったように思います。本当はあと三つほど行く予定で、そのうち一つは今週末の大曲の予定だったのですが、どうも流石に天候がやばそうで諦めなきゃいけないかなあと、ちょっとだけ憂鬱な気分でおります。まだ夏を追えたくないんですよね。これが終わったらモンハンワイルズまで気絶する予定なので、もうちょっと人間でいたいのです。

さて、今日のタイトルは少しだけ刺激的ですね。写真家になるということ、という話。まずは結論を書いておくと「本当はわからん」のです。僕はたまに写真家と呼ばれるんですが、自分を写真家であると考えたことはあまりありません。ギリギリ自分を「クリエイティブに関わる人間」くらいの認識でいるのですが、花火撮り終わったら気絶してモンハンまで寝ようと思ってる人間は、多分写真家ではないと思うんですよね。いや、それは流石に冗談なんですが(冗談であって欲しいのですが)、「どうやって写真家になったの?」と問われても、いつの間にかなっていて、自認としては「写真家ってなんだろう?」くらいの気持ちなんです。
ただ、一つわかっていることがあって、写真家にせよフォトグラファーにせよ、そういうふうに言われる人たち(多分僕もそこに含まれるんですが)は、誰にせよ「あの人はああいう写真撮ってるよね」って即座に思い出せる個性を持っているってことなんです。自認はどうあれ、「別所の写真どんな感じ?」って言われたら、皆さんの頭の中にいくつか傾向が出てくると思うんですよ。それを持っている人たちが、多分写真家なんだろうなと。そしてそれは一般的には「個性」とかって言われるんですが、もうちょっと解像度を高く言語化すると、写真家と呼ばれる人たちは「自分の写真の定義」を目に見える形で行っている。そして自分の写真を、他者の類似の写真から区分けするポイントを持っている。意識的にせよ無意識的にせよ、「誰かの模倣」「何かの模倣」「ある傾向の模倣」から離脱して、「自分の色、構図、光」を持っているんです。そしてそれを作品を通して絶え間なく「定義づけ」している。その人たちが「写真家」であり、それができるということが「写真家である」ということになります。

だから、というわけでもありませんが、脱線的にいうと、「上手い/下手」は最終的に写真家の基準にはならないです。もちろん商業写真家というか、クライアントワークをこなすためには技術的な上手さ、というか高効率な自己再現性は必要だし、プロとして市場に出ると、好むと好まざるとに関わらず「上手さ」は身につくものなのですが、それは写真家に必須の条件ではない。例えばよく槍玉に挙げられる「彩度マックス」ですが、彩度が高いことが悪いのではなく、その彩度の高さを「写真家」として区分けするのが難しいだけなんです。どうしても彩度が高いと、絵が画一的に見えるからです。逆に言えば、彩度高いのに写真家として成立している人たちは、一層すごいということになります。僕が蜷川実花さんを尊敬しているのは、彼女の写真は時に彩度が飽和しているほど鮮やかなのに、やはり写真家として唯一無二の個性を放っている。その凄さはやはり意識すべきであると思うのです。

人間は共同体に所属することで安心するので、一旦「彩度マックス」なんていう揶揄が生まれると、それとは逆の方向のポジ取りをすることで安心するし、そのポジから、一見素人っぽく見える彩度高めの写真を嘲笑することで、自分のポジの安定を獲得しようとします。でもそれをやっているうちは、おそらくその人は写真家にはなれない。共同体に所属する安心感の先には、コモディティ化しかないからです。安心感とは、突き詰めると社会に埋没していることだからなんですよね。
もちろん、その安心感こそが大事ならば、自己を立てる必要なんて微塵もないし、写真家になる必要もありません。でも写真家になる、あるいは写真家であろうとするならば、人の個性を笑って安心しているだけではなれないってことなんですね。出る杭になる必要があるというわけなんです。そしてその出ている杭という自分の個性を、意識的にせよ無意識的にせよ、定義して写真を通じて問わなきゃいけない。打たれて折れる前に、しっかりと定義づけし続けなきゃいけない。そしてそれができる人こそが、写真家であるのだろうと思っていますし、そういう個性を僕は応援したいなと思ってるんですよね。まあ、僕もまだ成長せんとあかんから、偉そうなことは言えないんだけど。

さて、でも問題は、写真家になることが表現を通じた自己定義であるとすると、「写真家であり続けること」はそれだけでは不足だってことなんです。その話はまたいずれ。
すでに登録済みの方は こちら