動き出した夏
気づいたら8月に入っておりました。
月に6本くらいを目標にしてたのですが、7月中盤のアメリカ遠征からの花火シーズン突入で二進も三進も行かず、日々素材に追われて過ごしております。でも幸福ですね。目の前に撮るべき花火が無数に上がり、それをひたすら無心に撮り続ける。数年前のコロナの時には、花火がなくて寂しい夏を過ごしました。あのお腹に響く音がないだけで、これほど夏がつまらなくなるなんて、僕は想像もしていなかったのです。
ハイデガーは、道具の道具性は、それが壊れた時に最も露わになると言いました。トンカチは壊れた時に最もトンカチの本質を露わにするし、メガネが壊れた時、我々は「視力が矯正されていることの意味」を改めて痛感します。あまりにも当然のように上がっていた花火が消え去った時、鼓膜を揺らすあの音、空を染め上げるあの色、鼻腔をくすぐる硝煙の香りがなくなった時、僕らは日本の夏の中核には、あの夜空に咲く花があったことをようやく知ったのです。単に綺麗だからではないし、単にバズるからでもない。僕らはそれを経由して初めて「夏」を生きる。僕らの夏は、あの年、一度動くことをやめ、そしてようやく動き出したのが去年くらいから。今年は再び動き出した夏を満喫できることは、本当に幸せなのだなあと、先日山に登りながら思いました。山の上に打ち上げられる大きな花火は、止まった夏の刻を揺り動かす号砲なんですね。