デートDVと「ドイツ製のカメラ」と巨大な主語WE - L007
こんにちは。このレターも2ヶ月目に入ってきました。当初予想していたよりも遥かに気楽に書き綴っております。この歳になってようやく「自分を楽させる方法」を少し学べた気がします。個人的には自分に対してすごく甘い人間だと思ってきたのですが、友人から言わせるとかなり強度高めの仕事人間らしく、おそらくその認識の齟齬というのが、自己に対する無意識の圧力になってきた人生だったようです。簡単にいうと、「状況や身体的に無理しているのに、心がそう思っていない、あるいは心がそれを敢えて無視している」タイプの人間だというわけです。
それに気づいて、今年の冒頭心に決めたことは、「無理しない」でした。ちなみに30代頭に設定した人生の目標は「善い人間になること」でした。47歳の正月に決めたことは「無理しない」。人生の変遷というのは面白いものですね。
今日の記事はLeica SL3で撮影したウズベキスタンの写真を
そう、だから今年は「無理しない」が目標で、このレターも無理せずに書きづつっております。これまでの自分だったら、「このテーマを書かねばならない」と設定すると、強引にその領域で文章を書こうとして、ある程度のところまでは頑張れるのですが、限界点を超えると二進も三進もいかない状況に自分を追い込んでしまって、結果として何も書けなくなる、なんてことがnoteでも、あるいはその前に書いてきたあらゆるメディアでも起こってきたことでした。
その結果が、前回の本の書き出しの時に起こった「文章かけない」問題です。1ヶ月のリハビリを必要とするくらい、文章を出力することに苦労したのは、結局自分が自分を追い込んでいたからだというのを、そのタイミングで気づいたのですね。このレターではそういう自己制限を「外す」訓練、あるいは療養を企図していて、それが今のところとても上手くいっています。ある意味ではこの文章は、僕が失った「自分」との対話であり、再発見の物語でもあるということです。
そう、本で思い出しました。3月9日に発売した『写真で何かを伝えたいすべての人たちへ』、重版出来です!ちなみにこれ、読み方は「じゅうはんしゅったい」です。以前この単語がドラマのタイトルになった時に初めて読み方を知りました。それまでは恐る恐る「じゅうはんでき?」と読んでいたのですが、予想外の読み方です。でも読み方を知ってからは、その音のはまり具合が好きで、自分の方が重版になるたびに使いたくなります。それはどうやら公式、というか出版社さんも同じようで、ホームページでも使われておりました。
嬉しいものですね。読んでくださったみなさんのおかげです、ありがとうございます。
さて、4月が終わりました。大変忙しい4月でした。「無理をしない」と設定した2024年であるにもかかわらず、3月末から4月頭にかけてはレンズのお仕事を、4月頭から中旬にかけてはスマホのお仕事を、4月中旬から末にかけてはカメラのお仕事をやっておりました。移動範囲も広く、南は石垣島から北は青森まで、訪れた県を数えたら10県も移動していて、ずいぶん「無理」をしたなあと思っておりますが、こればっかりは仕方がありません。各メーカーさん、企業さんの年度初めということもありますし、梅と桜と藤の季節でもありますし、大学の新学年度の開始でもあります。全ての物事が被さる4月ということもあって、無理しない2024年にあっても、唯一頑張らねばならない月が今月でした。それもようやく一息ついて、今このレターを書いております。
今朝はNHK教育番組をぼんやりと見ていたところ、「デートDV」についての話が取り上げられていました。僕のような昭和生まれの人間にとっては、あらゆる領域でDVが増えていく令和は大変だなあと思いつつも、番組を見ていると基本的にはDVの構造というのはデートに限らないよね、という気づきを得ることができました。
ウズベキスタン初日の写真。もちろん声かけて撮らせてもらってます。
人間と人間が閉ざされた関係の中にある時、よほど意識しなければ生まれるのが権力関係です。権力関係というと難しそうですが、上下の関係ですね。お金の上下、年齢の上下、筋力の上下、肩書きの上下、機材の上下。DVは上下の関係が無意識的に前提された時に発生しやすい問題です。そして、その上下関係が出やすいのが実はカメラだよねと、昨今再び毎日のようにいろんなトピックで燃えているSNSのカメラ界隈を見ていると感じます。
番組の中で指摘されていた観点の一つが「Youメッセージ」と「Iメッセージ」の比較でした。Youを主語にした文章の場合、その文章は批判や決めつけになりやすく、必然的にDVが発生しやすいという指摘です。例えばこんな文章。「ドイツ製のカメラのどこがいいと思ってるの?」という文章。一見問題がないように見えますが「あなたはドイツ製のカメラのどこがいいと思っているの?」とフラットに問うているように見せかけて、「あなたはドイツ製のカメラをいいと思っている」という相手の気持ちを暗黙に決めつけた上で、批判的なニュアンスを誘発させようとしているというわけです。そこにはさらに批判性の強い論点を暗示的に引き込む動線まで見え隠れします(「機材めっちゃ高いくせに機能全然ないよね、なんで使ってるの?」のような)。確かにYouメッセージはちょっと怖い感じです。
一方Iメッセージは自分の気持ちを伝えるので、協調的で相手に寄り添うメッセージになりやすいとのことでした。例えば上の文章をIメッセージに変えてみましょう、こんな感じに。「ドイツ製のカメラの良さがあまり分からないんだ」。どうでしょう?メッセージ内容はほぼ変わらないにもかかわらず、主語がIになることで、かなり柔らかくなった印象です。面白い観点だと思いました。
1対1の人間関係において、本質的には気持ちがわからない他者の行動を「You」を主語にして文章を書くと、言われた方の「You」は確かにいい気持ちがしないだろうことは容易に推測できます。これがDVにつながる「権力&支配関係の誘発」ですね。
ただ、実はSNSというのはこのI&Youの問題をさらにややこしくずらしてしまう主語が存在していて、それがWEの存在です。先ほどの文章を、WEを主語にしてみましょう。
「ドイツ製のカメラの良さなんてわかるもんじゃないよね」
これです。本来なら「私のきもち」を伝えるはずのIメッセージが、いつの間にかその「I」の中に、勝手に「私に同意してくれる無数の他者」をカウントに入れて、Iが複数化、巨大化するわけです。SNSで出てくるIは、往々にして巨大なWEになりがちなのですね。
そしてそこにもう一つ問題があって、日本語は主語を明示的に書かない言語だということです。上に例に書いた三つの文章は、全て敢えて、主語を書かないでおきました。というかそれが日本語として自然な文章なんですね。英語だとそれぞれ、You、I、WEが主語になるべき文章なんですが、日本語はそれを書かない言語です。
だから、IをWEにスライドさせて主語を巨大化しても、書き手も読み手もそれに気づかないうちに問題が巨大化してしまう。DVの持つ権力&抑圧構造が、SNSで極端に増幅されてしまう原因の一つは、ここにあると思ってるんですね。
ちょうど重版のかかった今回の本で強調したかったのは、「迷う」ということでした。これはIに拘った観点でした。そして本の全てが「私はこう思いますが、あなたはどう思いますか?」という、徹底的にプライベートな問いかけを行っています。物事をWEへとスライドしないための予防線をそこに引いておこうと考えていたのです。
でもその一方で、最後に希望を託した場所は、WEでもありました。巨大な「私たち」にならないまま、緩やかに存在する連帯の感覚の対象としての「弱いWE」が、あの本の最後で見ようとした「篝火」の繋がる先だったというわけです。
ということで、未読の方がいらっしゃったらぜひ第二刷になる前に、以下からよろしくお願いいたします(笑)
では今日はこの辺で。みなさん、良いGWをお過ごしください。
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