サロンについて、大学の授業について
オンラインの写真サロンをやってます。当初はいろんなことをゴリゴリやっていこうと思ったのですが、すぐにそれは僕の性に合わないということに気がつきました。大学の授業も同じなんですが、ある集団なり場なりの責任者や主催者になった時、僕は「基本何もしない」を選択しがちなんですよね。それは多分、小学校や中学にいた頃、指示されることがすごく嫌いで「放っておいてくれ」と思っていたことに根があるように思っています。やりたいことは常に自分で見つけてきたし、人に指示されると途端にやる気がなくなって何もしなくなる。そういう子どもでした。超個人主義。なので、長じて何かの集団をつくると、三つ子の魂百までと言いますか、「何もしない」を選択します。めんどくさいからとか面倒だからそうしているのではなく、「指示されることへの忌避感」が染み付いているし、生きることはすなわち自己の決断の連続であると信じているので、人のやることを導くことへの強い懐疑があるのですね。
大学で働き始めた時、最初の頃は授業を頑張っていました。15年くらい、完全にみっちり、自分のやれることの全てを伝えるような授業をしてきました。幸い、その15年間の授業は好評だったように思います。映画の物語構造を使って、英語圏の文化や言語に触れるという授業だったのですが、徹底的に分解しながら、単なるプロットラインの理解にとどまらない「分析」と「想像」と「綜合」を提示する授業をやっていたのです。
そんな授業を15年間やった後、ふと、「これでいいのか」と思いました。授業を受けてくれた多くの学生たちは楽しかった、素晴らしかった、大学で一番面白かったと言ってくれる学生も多かったです。特に僕が教えてきた大学は、同志社や立命館や関西大学のような、頭のいい子たちが通う学校が多かったので、高校まででは絶対に出てこないような内容に触発される学生たちが多かったのだろうと思うのです。知に対してちゃんと反応できる学生たちに、たくさんのことを話しました。
でも、大学とは何かを教わるところではないのではないか、そう思ってしまったのです。そうではなく、何かを考える場所。考える態度を、養う場所が大学なんじゃないか。そしてその態度こそ、これから社会に出る彼らに伝えなければならないことではないのか、そんな風に思ったんですね。そしてそう思ったら、いてもたってもいられなくなった。
単純に知識を与えたかったわけではなく、考えたり疑問を持ったり想像したりする「知的態度」のあり方を伝えたかったのですが、僕の授業は突き詰めれば「大学エンタメ」だったのです。15年間を経た後にそう感じました。そしてその疑問が本格的に拭えなくなった時にちょうど始まったのが、関西大学のフォトグラフィ実習という授業でした。
15年の疑問の果てに、僕はこの授業では「教えないこと」を始めてみようと思ったんです。考えること、疑問を持つこと、それらを綜合して次のステップへと自ら進む態度を獲得すること。そのようなことを、「カメラ」なら「写真」なら出来るんではないか。なぜなら、僕がカメラや写真を通じてやってきたことが、まさに誰にも教えてもらうことなく、自分でやりたいことを自分でやり続ける道だったから。でも同時に、その道が自分だけではうまくいかないことがわかっていました。僕が歩いたカメラや写真の道は、多くの人に助けられ、仲間や友人たちとの邂逅の中で進められたものでした。だから、「何も教えないけど、安心して戻ってこられる場を作る」、そういう場を大学の中に作ろうと思ったのです。そして多分、それはある程度うまく行きました。
授業を開始して3年目、東京カメラ部のU-22の10選に選ばれる学生が出ました。それは象徴的な出来事ではありますが、その学生だけではなく、授業を終えた学生の何人かは、授業に残って運営をサポートしてくれるようになりました。教員の僕が「何もしない」を徹底しているから、彼ら彼女らが助けてくれなかったら、この授業は何も動かないんです。それを知っている学生たちが、僕を助けるように、自ら考え、自ら動き、そして成果を上げていきます。ああ、こういう場で良かったんだと、彼らの姿を見て思ったのです。
だから、サロンもほとんど何もしてないのです。何か内側から生まれるものを大事にできるように、僕からはほとんど。もちろんたまに写真展を開催したり、飯会を提案したり、一緒に撮影に行ったりはするんですが、基本は何もしない。でもそれが、なんていうか、ぼんやりとした形になるんですよね。どういうつながりかは一言で言えないんですが、空を飛ぶ鳥たちの「宿木」のような場所、少しだけ羽を休められるような場所として少しずつ出来上がりつつあります。自分にとっていい感じの場所が出来てきたなと最近は思っております。
とはいえ、お金もらってるので、多少は何かしないとなんですけどね。でもこの「何かしないと」が行き過ぎすぎると、僕は自分を縛ってしまうので、うまく自分をコントロールするのが今後の課題でしょうかね。
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